昨日刺繍をしていたら眠くなってきて、うとうとしていた。
(そういえば昨日は、冷たい雨の中幼稚園の行事に向かったが
帰りは気持ちいいほどの快晴だった!)
そしたら眠りに入りかけた時に
「今、自分が持っている不安も遊びのために体験している」
と浮かんできた。
けっこうそれが、なるほどと腑に落ちるものだった。
自分のことを心配性、不安性だと思っていたけど
実はそうではなくて本質は逆で、ただの遊び。
小さい頃、お年玉は欲しいものがあれば使ってしまうタイプ。
母や姉にそのことをよく指摘されていて(悪い性質として)
未来は最悪の想定をしておかないといけないと学習して思い込んでいった。
朝礼の教頭先生の話はぼーっとして聞いていなくて
全校生徒の前で叱られたこともあるような子どもだったのに
いつからか堅物真面目な優等生になっていた。
心配性にも、不安性にも利得がある。
不安がることで逆に安心している。
私はちゃんと未来のことを考えていると。
ちゃんと一寸先の闇も想定しているよ、と。
自分に無い性質だからこそ、あえて今生で
めちゃくちゃ味わっているのかもしれない。
あえてそういう流れの人生を選んでいる。
今気づくというこのタイミングも、然り。
不安は実は、ただのアトラクション。
乗って怖さを楽しむジェットコースターのようなもの。
怖がってもいいし、楽しんでもいい。
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次女の熱でドタキャンした相手に改めて謝罪のLINEをしたら
ちょうど相手も事情があってキャンセルになって良かったらしい。
まさかのWINWIN。
そういうことって、ある。
人生はうまくできている。
あと、その相手というのが昔の親友で。
ある時期からギクシャクしていて、さらにしばらく疎遠だった子。
改めたまた付き合いを始めるのかどうか、と悩んでいたけど
今回の一連の流れでなんとなく、袂を分かつ感覚があった。
もうおそらく、今後はお互い違う世界線を生き始める。
普通のやりとりだけど、まるでお別れの挨拶のような感覚だった。
人との縁もまた、波のように寄せては返す。
触れ合ったり、離れたり。
それもまた、ベストなタイミングで選んでいる(無意識領域で)。
その友人とも、10年20年後にはまた一緒に
何事もなかったかのようにお茶したりしているのかもしれない。
無意識領域ではきっとすべて決めている。
意識下では人生どうなるかなってみないと分からない。
それがもう、アトラクションみたいに楽しむために。