ちょっと「がむしゃら感」が強すぎたかもしれない。
欲しいものがあったらすぐ買わないと気が済まない。
興味が出たら本や必要なものをすぐ準備しないと気が済まない。
「ほしいな〜」「やりたいな〜」と頭で考えてモヤモヤすることに強いストレスを感じてしまうからだ。
一刻も早く自分の衝動を抑えて、満たしてあげた方がてっとり早い。
行動力があるのは良い面もあるが…同時にその勢いに自分でも引いている。
なんだか…、ちょっと本質とズレている気がしていた。
ちゃんと本質を見てみよう、と思った。
勢いで行動するのは昔からの性質でもある。
わくわくすることが大好きで、好奇心旺盛でおてんばだった。
刺激を欲しがる女の子だった。
田舎のすんごい長い坂を自転車で勢いよく下りていって大きな道路に出るギリギリで急ブレーキをかける遊びを一人でしていた。(今ではありえない。絶対アカンやつ。)
案の定、車に轢かれかけた。びっくりした運転手の顔を今でも覚えている。
休み時間は学校にあるドーム状の高い鉄棒の上に登って、手放しの状態で勢いよく駆け抜けていた。どんだけ早く駆け抜けられるか。
これができるのは校内で私ともう一人の女の子の二人だけ。それが誇りだった。
(そんなことするやつ男子でも他におらん。)
案の定、何度もやっていたら最終的に落ちて怪我をしてしまった。
「打ちどころがもう少しズレていたら歩けなくなっていたよ」と先生に言われた。
グリコのついでに階段を何段ジャンプできるかを競っていた。
最高記録12段ジャンプしたらさすがに飛びきれず捻挫した。
おかげで冬のマラソン大会は欠場になった。(これはラッキー。)
あぁ、そんな話キリがない。そんな子供時代だった。
当時は大人も目があまり行き届いてなかった。ある意味自由だった。
今は子供に「危ないからやめて」と注意しているが、お母さんはもっとやべぇことたくさんしていたと改めて内心青ざめる。よく無事だったことだ。
守護霊たちの慌てる顔を想像する。ご先祖さまも手をやいていただろう。
「あの子はほんまにお転婆で…」とため息をついていたに違いない。
とにかくいつもワクワクしていたい。
それは今もあまり変わっていないから、自分を飽きさせないためになんやかんや手を焼いているのだが…。
性質も多少あるが、私が衝動的なのはそれだけでもないと気付いた。
中村咲太さんのYouTubeで「荒々しく変化しようと力む人は自己愛が足りていない」というようなお話をされていて当てはまっていると思った。
衝動的なのは不安感からだと思う。
不安を埋めたいから行動するのである。
しかし不安感から生まれる行動はあまり実を結ばない。
それが本心はわかっているから行動しても不安感は消えない。
私が他人として私にアドバイスするなら「そんなにがむしゃらじゃなくたって大丈夫だよ」と伝えると思う。
「優雅さをもって」とも中村さんは言っていた。
優雅さ……。全く無い。
夫にも「(私の行動が)丁寧やな〜と思ったこと一度もないな。」と言われた。
私も自分に対して丁寧だと思ったことは一度もない。
いつもちょっと急いでいる。
「丁寧に生きる」はここ数年よく聞くワードだ。「丁寧な暮らし」とか。
私も目標に掲げたことがあるが1時間ももたなかった。
ゆっくりする時間がもったいないと思ってしまう。
でも「優雅に」はけっこう良いなと思う。
今の私が求めている状態にハマっている表現というか。
「丁寧に」はなんとなくプレッシャーだが、「優雅に」はできそう。
「丁寧」って人によって判断が違うから、私のとっての丁寧でも他人にとっては「もっと丁寧にやってよ」となるかもしれない。(というかなったことがある。)
それに対して「優雅」は境界線がより不明瞭で、自分が「優雅に生きている」って思えればそれでいい気がする。
「いつも凛としてるよね」と言われたことがあるのだが、ちょうどあの時期はスレてて一番クールだった時だ。
「優雅」と「凛」は似て非なるものか。
「凛としている」と言われた時は他人との境界線をバシッと強烈に引いていた時期だ。当時は孤独感のような生きづらさもあったが、相反して生きやすさもあった。
「優雅」はそれよりも、もうちょっと柔らかい感覚だ。
今は特に勉強に対して「やらねば」と荒々しくなっていた。
自己愛は足りていなく、自分がほったらかしに。ハグしてあげないと。
勉強も「優雅に」。
今は自分にとって必要なものだと分かっているからこそ余計に。

心機一転な一年になるという予感も含めて。