今日出勤途中にぼんやり考えたこと。
過去の優しい人からもらった優しい言葉と嫌な人からもらった嫌な言葉が両方浮かんだ時。
嫌なことの方が引き出しから出てくるスピードが早い気がする。
良いことはじんわり出てくる。
優しい言葉と嫌な言葉。
インパクトの大きさを比べると後者のほうがでかい。
人生に対する影響力は前者のほうがでかい。
前者の言葉は人を変えることがある。
しかし後者のほうがザックリ心に残りやすい。
それはなぜか。
前者の言葉が人の今後を変える影響力をもつのにあっさりとしているのは、言った本人に「こいつを変えてやろう」とか「良いこと言ってやろう」という欲が無いからではないか。
後者の言葉には欲が隠れている。
「こいつを正してやろう」「私(俺)の言葉を理解させよう」。
つまり言った人は言う相手に『自分の存在』を刻みたいからではないか。
自分が嫌な思いをしたことをわからせたい。
自分の傷を認めさせたい。
自分の正当性をわからせたい。
自分の存在をこの世に刻みたい。
なんというか果てしない欲望である。
そしてもちろんそれは私にも存在する。
私も自分を誰かに刻もうとしているところがある。いやめっちゃあるかも。
大なり小なり各自持っていると思う。
が、いつも発言が素敵なあの人は持っていないのかもしれない。
もしずっと誰かの嫌な言葉が残っているなら、言った相手側の「刻みたい願望」を成就してあげていることになる。(!!!)
となると、忘れてあげることが最強の仕返しとなる。
そんな私は去年の乱暴ジジイ(仕事中私を殴ってきた60歳)のことをすっかり忘れていた。
それに対して当時あんだけブログでブチギレといてふつーに忘れていた。
あのジジイも自分の苛立ちを私に理解させることで自己表現を図っていたのだと思う。
(そう考えるとかわいいね。)
普段の言葉ですら「自己表現」の一種である。
「自己表現」って対「人」になるのがオーソドックスで、なんならそれ以外を探すのはちょっと難しい。
『言葉』も『音楽』も『芸術』も、対「人」のために存在する。
人間関係はその「摩擦」から学ぶことも多く、人と「比べる」ことで自分を知る。
みんな自分を表現したがっている。
だからこそ生まれる摩擦、軋轢。そして喜び。
もうすぐ38歳だが、自己表現がいまだ不器用で下手な私。
そろそろもう少し、美しく表現できるようになりたい。