いつか可愛いおばあちゃんになれたら。

35歳からおばあちゃんになる日まで、日々の想いをつづる日記。

不幸な人の、不幸話には。

私の母は自他ともに認める苦労人である。

 

私の友人にも荒れた家庭を今でも面倒見たり

離婚した弟の妻への養育費を肩代わりしたりと

ものすごく苦労している子がいる。

 

私はこれまで

自分の周りに苦労性な人が多かった。

 

そういう人たちの話を聞くことになんの違和感も無く

自然と傍にいた。

 

が、それが想像以上に

自分の感受性を酷使し

本人と一緒に自分も疲労していることに

やっと気づいた。

 

そういう苦労性の人たちは

どうしてそんなに苦労しているのか。

 

これまでそういう人たちに対して

「すごいな」

「私にはそんなに自分を犠牲にできないな」

「すごく優しい人なんだな」

と思っていた。

なんならそれができない自分のことを冷たいのかもと感じるほどに。

少しでも彼女たちが楽になる方法があればと思って

状況を変える案を伝えても

彼女たちはたいてい満たされない表情をするだけだった。

変わらない、ただただ続くハードモードな人生。

希望が見えない話は、こちらも聞いていて辛い。

 

抜け出して欲しいのにそうしようとしないのはなぜか。

 

心理学の世界ではそこに『利得』があるからだと考えるらしい。

苦労性でいると得をすること

不幸でいると本人にとって得になること

があるらしい。

もちろん無意識領域で。

 

例えば苦労していると周りに頑張ってて偉いと褒めてもらえる、とか

不幸でいると娘に心配してもらえて寂しい思いをしないで済む、とか。

 

本人たちが辛そうに見えても

本人たちには「不幸になる自由」があるのだ。

こちらが介入してはいけない。

 

私は私を心身を守るために、決めたことがある。

不幸な人の、不幸な話には

「聞かない」「関わらない」「興味をもたない」

3Kだ。

 

私にはパワーが無い。

辛い人の辛い人生を変えられるほどの、

強い精神力や胆力、そして体力。

癒す力も持っていない。

 

他人を癒すにも、まず自分が癒えた状態でなければならない。

まず自分のことから。

自分を幸せにするために集中して生きることだ。